駐日パレスチナ常駐総代表部
HOMEパレスチナ国のプロフィールパレスチナの歴史>パレスチナ近代史の概要
History of Palestine パレスチナの歴史
パレスチナ近代史の概要
      
アラブの援護の下、1917〜18年、英国はオスマントルコからパレスチナを占領した。英国はメッカの太守フセイン・イブン・アリ (1856−1931)への書簡で(1915−16)、戦争後にはアラブ人国家を独立させるという約束をしたため、アラブ人はトルコに対して反乱を起こした。しかし英国はフランスおよびロシアとサイクスピコ密約 (1916)を結び、その中で相反する約束をしていた。すなわち英国は同盟国とパレスチナ地域の統治を分割する約束をした。また英国は第3の合意である1917年のバルフォア宣言でパレスチナにおけるユダヤ人の「民族的郷土」の建設を約束した。
この約束はその後、1922年国際連盟が認めた英国による委任統治に組み入れられた。委任統治時代(1922〜48年)に、英国はユダヤ人社会およびパレスチナ人社会の双方に実施した2つの矛盾する約束を調整するのは難しいと判断した。シオニストは大規模なユダヤ人移民を想定し、一部の者はパレスチナ全域から成るユダ人国家を唱えた。パレスチナ人は第三者に自分達の国を保証する英国の権利を拒絶し、シオニストによる追い立てを恐れた。対シオニストの攻撃がエルサレム(1920年)およびヤーファ(1921年)で起きた。
1922年の英国の方針声明では、パレスチナ全域に対するシオニストの要求および限定付きのユダヤ人移民は否定されたが、ユダヤ人の民族的郷土への支援は再確認された。英国は立法審議会の設立を提案したが、パレスチナ人はこの審議会を差別的であるとして拒否した。
1928年、ユダヤ人移民が増えると、英国の方針は相反するアラブ/ユダヤ双方の圧力の下で変動した。ドイツにおけるナチス政権の樹立(1933年)後、移民は急増し、1935年にはおよそ62,000人のユダヤ人がパレスチナに移住した。
ユダヤ人支配への恐れは、1936年に始まり1939年まで断続的に続いたアラブ人による反乱の主要原因であった。その頃までには、英国は再度ユダヤ人の移民と土地の購入を制限していた。
パレスチナ紛争は第二次世界大戦中は勢いが衰えたが、1945年に再開した。ホロコーストの恐怖が、欧州のユダヤ人やシオニズムに世界的同情を巻き起こした。そして10万人のユダヤ人によるパレスチナへの入国が英国により拒否されていたにもかかわらず、多くのユダヤ人が非合法な方法でパレスチナへその活路を見出した。
パレスチナ問題を解決する様々な案は、ある政党または別の政党により拒否された。英国は最終的に統治が機能しない旨を宣言し、1947年4月パレスチナ問題を国連に委ねた。ユダヤ人およびパレスチナ人双方が決戦へ備えた。パレスチナ人はユダヤ人に対して数の上では勝っていたが(130万人対60万人)、装備の上ではユダヤ人のほうが上であった。ユダヤ人はベン・グリオン率いる半自治的な政府を設立し、十分に訓練された経験豊かな軍隊ハガナを有した。一方、パレスチナ人はアラブの反乱による痛手から回復しておらず、ほとんどのアラブリーダーは追放されていた。
アラブの第一スポークスマンであったエルサレムのマフティは、ユダヤ人国家の承認を拒否した。1947年11月、国連が分割案を提示した。ユダヤ人は同案を受け入れたものの、マフティは拒否した。後に続く軍事闘争においてパレスチナ人は負け、両サイドが暴力を行使するようになった。
1948年5月14日、イスラエルが建国された。5つのアラブの軍隊がパレスチナ人を支援するためにパレスチナに向かい、直ちに攻撃を開始したが、まとまりがなく、また劣勢であったため、彼らはイスラエル軍に敗北した。イスラエルはその領土を拡大した。ヨルダンがヨルダン川西岸を統治し、エジプトがガザ地区を統治することとなった。
(イスラエルは1967年の6日戦争後、これらの土地を占領した。)
この戦争により78万人ものパレスチナ人が難民となった。その約半数は恐怖とパニックから逃げ出した者であり、残りの半数は、欧州およびアラブ世界から来たユダヤ人移民の居住地を作るために強制的に追放された者たちであった。パレスチナ人は近隣諸国に散らばったが、パレスチナの国民的同一性を保ち、今でも故郷に帰ることを望んでいる。
Contact us
Copyright (c) 2004 General Mission of Palestine. All Rights Reserved.