駐日パレスチナ常駐総代表部
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History of Palestine パレスチナの歴史
西暦1〜999年
      
西暦70年:ローマ皇帝ティトスはエルサレムを包囲した。神殿は激しく抵抗したが最後には崩壊し、それに伴いエルサレム市全体が陥落した。ティトス皇帝は完全で永続的な勝利を求め、ヘロデ神殿を完全に破壊するように命令した。アエリアと呼ばれる新しい都市がローマ人によりエルサレムの廃墟跡に建てられ、ジュピターを奉る神殿が建設された。
西暦313年:時のローマ皇帝コンスタンティヌス1世がキリスト教を公認した際、パレスチナは特に注目された。コンスタンティヌス1世の母親であるヘレナが聖地としてのエルサレムとパレスチナを訪れ、同地はキリスト教徒巡礼の焦点となった。その後、繁栄と安全と文化の黄金時代が続き、ほとんどの住民はギリシャ化し、キリスト教徒となった。
西暦324年:ビザンティウムのコンスタンティヌスはアエリアに向けて進行した。彼はエルサレム市に壁を建設し、聖体安置所を教会に委任し、キリスト教徒の巡礼のために同市を開放した。
西暦29‐614年:ビザンチン(ローマ)の支配はペルシャの占領により短期的に中断され、638年ムスリムアラブ軍がパレスチナに侵攻してエルサレムを占領し、ペルシャおよびビザンチンの時代は終った。
西暦638年:アラブ軍の征服は、後にフィラスティンとして知られるようになったイスラム教徒の1300年にも及ぶ支配の幕開けとなった。ビザンチンの影響を排除したかったエルサレムの人々は、イシュメイルの子孫であるアラブ人と共有する文化遺産を認識し、勝利したイスラム教徒の慈悲と思いやりを評価し、短期間の攻防後、エルサレム市をアラブ人に明け渡した。エルサレムの住民はたった1つ条件を出した。それはカリフ・オマルと直接面会して降伏条件について交渉することであった。オマルは歩いてエルサレムに入城した。流血はなかった。虐殺もなかった。去ろうとした者は去ることを許され、留まることを望んだ者にはその命と財産と礼拝所の保護が保証された。
パレスチナはイスラム教徒にとって聖地である。なぜなら預言者モハメッドがエルサレムを最初のキブラ(回教徒が礼拝する方向)と定めたからである。また別の理由は、預言者モハマッドがエルサレムの旧市街(今日のアクサモスク)から一夜の昇天を遂げたからである。その場所には後に岩のドームが建てられた。エルサレムはイスラム教徒にとって第3の聖なる都市となった。イスラム教の支配者はパレスチナ人に自分たちの宗教を強制することはしなかったので、大多数の者がイスラム教に改宗するのに1世紀以上の時が流れた。残りのキリスト教徒とユダヤ教徒は「聖書の人々」と考えられた。彼らは自分たちのコミュニティの自治を許され、崇拝の安全と自由が保証された。このような寛容さは宗教史上ほとんど見られない。大多数のパレスチナ人はまたアラブ/イスラム文化を受け入れた。最初のイスラム朝であるダマスカスのウマイヤド朝の時代、パレスチナは帝国間貿易およびその宗教的重要性から恩恵を受けた。
西暦750年:権力はアバシド朝のバグダッドに移り、パレスチナは顧みられなくなった。パレスチナはセルジュク朝、ファーティマ朝、欧州十字軍に継続的に支配され、苦しんだ。しかし、イスラム世界が科学、芸術、哲学、文学の黄金時代を謳歌し、パレスチナもイスラム文明の栄光を共有した。イスラム教徒はギリシャの学問を維持しながら、いくつかの分野で新たな基礎を築いた。その学問の基礎全体が後の欧州ルネッサンスに貢献することになる。しかし、マメルークの支配下にあったパレスチナは徐々に沈滞し、衰退して行った。
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