駐日パレスチナ常駐総代表部
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ARAFAT, YASSER
ヤーセル・アラファト(1929-2004)

ヤーセル・アラファト

1929年8月4日にカイロで生まれた。正式名は、ムハンマド・アブドゥル・ラハマン・アブドゥル・ラウフ・アラファト・アルクドゥワ・アルフセイニである。
主にカイロで、短い間であるがエルサレムで育った。1948年にはパレスチナのマフティ防衛軍の戦いに参加した。1956年、カイロ大学工学部を卒業。エジプトのカイロにパレスチナ学生連合(GUPS)を創設し、1952年から1957年まで委員長を務めた。1956年にはパレスチナ卒業者連合の議長となった。スエズ運河危機においてはエジプト軍に志願し戦った。同年末にはクウェートに移り、翌年(アブ・ジハードと共に)ファタハの前身となる組織を結成した。
1959年1月にファタハを創設した。以来、今日に至るまでファタハはPLOの最大派閥となった。ファタハの指導者として1958年から君臨し、1968年からはスポークスマンの役も務めた。
1964年3月、最初のパレスチナ対中国代表団のメンバーとして周恩来首相と会談を行った。1969年2月にファタハがPLOに加入した後、アラファトはPLO執行部の議長に選任された。アラファトはPLOの方針を汎アラブ主義からパレスチナ民族主義に変更し、1970年9月には全パレスチナ/アラブ解放軍を指揮するようになった。
1974年のパレスチナ民族評議会(PNC)の舞台でパレスチナの解放を求める決議を行った。1974年11月13日、初めてニューヨークにおける国連総会で演説し、片手にオリーブの枝(平和)を持ち、もう一方の手に武器(戦争)を持つことを宣言した。1977年から1978年にかけてエジプトのサダト大統領とイスラエルとの平和会談を拒否した。これは、パレスチナ自治が宣言されたものに比して縮小され、PLOの意義を認めないものであることが明らかになったためである。
1985年、長年の敵であるヨルダンのフセイン国王と和平の枠組みを締結し、パレスチナ−ヨルダン同盟への計画を包含した(1986年にアラファトがアキレ・ラウロ事件を非難しなかった時、フセイン国王はこの計画を破棄した)。1986年3月、国連決議242および338が提示され、これにより国連安全保障理事会はパレスチナの自決権を保証する約束でイスラエルを承認する案を申し出た。
1988年11月15日、アラファトはイスラエルを承認し、テロリズムを放棄し、独立パレスチナ国家を宣言した。1989年4月2日アラファトはPLO中央議会により初代パレスチナ国家大統領に選任された。
1990年から1991年における湾岸危機が起きるまでの間、アラファトはアラブ問題を解決する交渉のための「よいポジション」を与えられた。湾岸危機では、サダムフセインによりパレスチナを代表する「戦争」への呼びかけが行われた。1992年2月、アラファトはスーハ・タウィルとの結婚を発表した。同年4月、リビアのサハラにおける飛行機墜落事故に巻きこまれたが生還した。1992年からはイスラエルとの秘密交渉を取りまとめ、その結果1993年9月13日にはPLOとイスラエルの間に暫定自治宣言が結ばれた。それ以降、パレスチナ自治に関しイスラエルと交渉を続け、1994年7月1日にパレスチナの地へ戻った。パレスチナ自治政府(PA)を創設し、大統領兼内務大臣に就任した。その後、1994年にはイスラエルのヤツアーク・ラビン首相およびシモン・ペレス外相と共にノーベル平和賞を受賞した。1996年における選挙では87.3%の有権者から大統領に選任され、パレスチナ憲法を作成する委員会を選出した。1996年5月には渡米しクリントン前大統領と会談を行った。5月9日に25名で構成される新内閣を発表した。1997〜1998年には改革の失敗および内閣の汚職によりPLCおよび彼の内閣から辞職者が出た(例、ハナン・アシュラウィおよびハイダル・アブドゥル・シャフィ)。1998年6月にはフロレンスで「ゴールデン・ペガサス」賞を受賞。
1998年10月にはイスラエルとのワイリバー・プランテーション合意に署名した。イスラエルの撤退とパレスチナ過激派の取締りを要求。1999年イスラエルがその約束を破棄した後の暫定期間に、ヨルダン川西岸とガザ地区に東エルサレムを首都とするパレスチナ国家を一方的に宣言しようとするが、断念。1999年9月にシャルム・エル・シェイク協定に署名し、「C地域」から「B地域」への7%の返還を要求する。2000年7月キャンプデービッドでクリントン大統領とバラク首相との交渉に臨む、そこでは断固たる態度を取り、合意に至らなかった責任を取る。
2001年2月右翼アリエル・シャロン首相が当選後、同首相はアラファトとの接触を拒否し、アラファトはイスラエル政府により益々孤立させられる。アクサ・インティファーダの際は、イスラエル軍によるラマラでの議長府で軟禁され、外出を禁止された。2003年2月に首相を任命する国際的圧力を受入れ、2003年4月マハムード・アッバースを初代首相に宣誓就任させる。アッバースの辞任後、2003年10月パレスチナ非常事態政府を発表。2003年11月12日、新首相にアハメッド・クレイ政府を宣言。2004年10月病状が悪化、アンマン経由でラマラからパリに飛び、潜在的に致死性の血液疾患の治療を受ける。2001年以降最初の海外渡航となった。2004年10月29日からパリ郊外のクラマールのパーシー・ミリタリー・ティーチング病院で診察および治療を受けたが、回復せず、2004年11月11日死亡が発表され、アラファトの病状についての噂は消えた。

アラファトは自国民の窮状を世界に注目させ、その生涯をパレスチナ国家の追求にささげ、パレスチナの自由と独立を求める苦闘にパレスチナ民族を団結させた。彼は自国民に忘れ去られることはないであろう。

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